余薫

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 むせ返るように甘い、全身を麻痺させるほどに甘い花の香りが辺りに充満していた。
 その匂いの中心には横たわる女の体。
 魂を失って、なおも輝く霊気で邪悪な者を呼び寄せる。
 魂があれば近寄ることさえできなかったであろう小さな邪鬼まで、今は体のすぐ側まで擦り寄ってくる。


 魂を持っていたときは邪鬼の天敵であった女も、今は力を秘めた餌になっている。
 どんどんと呼び寄せられて、女の周りには視界が霞むほどの邪気が寄り添っている。


 他の者に喰われるくらいならば。


 そんな理由があったのか、それは真実なのか、もう分からなくなっていた。


 手を伸ばして、女の衣服を剥ぎ取る。
 美しい、傷のない体にうっとりする時間もなく、冷たくなった喉元に齧り付いた。
 獣より硬い肉の感触。そして冷たい血が口元を濡らし、喉を潤した。
 喉元から乳房、そして腹、中の内臓まで、次々と口に入れては咀嚼し、食べた。


 あたり一面には血の香りに誘われて、さらに邪気が集まってくる。
 ひときわ大きな邪鬼が、食べ残しをいただこうと手を伸ばした。
 しかし一直線に手を振るだけで、その邪鬼は跡形もなく消えてしまった。


 体に力が満ちる。
 女の体に残っていた霊気が、肉を喰うことによって自分のものとなっていく。
 閉じられた目蓋をこじ開けて眼球を取り出し、口に運んだ。
 髪と骨だけを残して、女の殆どを喰いつくす。


「そなたは鬼ではない」


 そう言って微笑んでくれた女はもういない。
 その肉や臓はすべて腹の中に収まってしまった。
 力が満ちて、自分が異形になっていくのが分かる。
 口元に張り付いた血を舐めると、恍惚とした笑みが口元に浮かんだ。


 ――俺は鬼だ。


 やはり、俺は鬼だったのだ。



 花の香りが、女の体を喰い尽した自分の体から微かに香った。甘く、どこか胸を締め付ける痛みを持った香りだ。もういない。だが黄泉の国で念を浄化しつくしたら、また輪廻に従って再びこの世界に戻ってくる。そう信じて、異形となった身を呪いながらも気の遠くなるほどの時を過ごした。

 この夢だって、何度見たことだろう。悲しいことに、女の顔はもう思い出せない。ただ甘く香る花の香りと、咀嚼した肉の感触だけが思い出される。いつか出会う。いつか再び出会えることを願って異形として生きてきたのに。

 まだ、逢えない――。

 いや、もはや再び会っても分からないかもしれない。あの女と過ごした短い日々は、あまりに遠い記憶になってしまった。顔も思い出せない女のことは、そろそろ諦めた方が良いのかもしれないと、正直そう思い始めていた。


「いい加減起きろ! 飯いらないのか、高佳!」

 温かい布団を剥がれて、おまけに耳元でそう怒鳴られた。ここ数年で聞きなれたテノールが耳をつんざき、そして最終的には枕まで取られた。ぼんやり目を開くと、どう見ても高校生くらいの男が自分を見下ろしていた。それもここ数年で見慣れた顔。高佳は――少なくともそれが今の自分の名前だった――ベッドの上で身を転がし、なんとかベッドサイドの時計に手を伸ばした。

「…………いる……って何だ、まだ早いじゃないか」

 自分が予定していた時間よりまだあと15分はあった。それなら、と高佳は再びベッドの上で身を転がして、残された布団を引き上げ眠る体勢に入った。しかしその残りの布団も引き剥がされ、高佳は不満を表すために獣のように唸り声を上げた。

「駄目だ! 朱美を拾ってから行くから、早めに出るぞ」

 唸る高佳にそうぴしゃりと言ってのけた童顔の男は、引き剥がした布団を高佳がまた確保しないようにと畳んで押入れに片付けてしまった。そこまでされたら高佳も諦めるしかない。

「……分かった」

 のろのろと上半身を起こし、昨晩のうちに用意しておいた着替えを手にする。高佳を怒鳴りつけて起こした男は、高佳が着替え始めるのを確認してから、部屋から出て行った。

 着替え終わり、二階の自室から一階の洗面所へ向かう。洗面台で顔を洗い、あまり目立たない髭を剃る。そして鏡に映る自分を見ると、いつも寝起きはその姿が二重に見える。実体はまだ若い、だが着実に成人へ近づいている男の顔。背は高いが、影のように薄いもう一人の男よりは小さかった。今ではどちらが自分、と主張することさえ億劫になってしまった。十数年も棲みついていれば、元は他人の体でも魂に馴染む。顔を洗って“気”を引き締め、二重になって見える魂と体をきちんと同化させる。あの夢を見た後は特別魂と体の繋がりが弱くなる。“気”を引き締めなければ、知らないうちに体を置いて魂だけで歩いてしまうだろう。

 とにかく魂をきちんと体に収めてから、高佳は台所へ顔を出した。そこでは既に高佳を起こした童顔の男が白いエプロンを引っ掛けて朝食を並べていた。

「顔、洗ったか? 高佳」

 ご飯を茶碗によそいながら、男は高佳にそう尋ねた。

「洗った」

 短く答えて高佳は食卓に着く。すると味噌汁の隣にご飯の入った茶碗が置かれる。丁寧に箸置きに置かれた箸が一番手前にある。男は高佳の前に座ると、エプロンをしたまま手を合わせた。

「よし、じゃあいただきます」
「いただきます」

 高佳も手を合わせてそう呟く。箸を持つとまず湯気を立てる味噌汁を口にした。今朝は葱と豆腐の味噌汁だ。二人きりの食卓に、高佳は味噌汁を飲み込んでから尋ねた。

「……親父は?」

 すると目の前に座っている男はご飯を十分に咀嚼し、飲み込んでから答えた。

「仕事。今朝急に連絡が入ってさ。まぁ、俺が行って写真を撮るから、後で見せれば良いだろ」

 その言葉に食卓から続いている居間を見ると、座卓の上に鞄とネクタイ、そして背広の上着とディジタルカメラが置かれているのが目に入った。準備万端のようだ。

「……高校の入学式に父兄同伴で来る男子生徒なんて殆どいないと思うんだが……」
「荷物の多くなる入学式に送り迎えしてやろうっていうんだ。文句言うな。それに、父さんが行くよりは俺が行った方がましだろう?」

 確かに。高佳は無言でその言葉に同意を示した。何も父親が特別おかしな性格をしているとか、人に見せられない顔をしているとか、そういうことではない。ただ表面上は無表情で冷たく見えるくせに、多少子煩悩であるというギャップがあるだけだ。そんな父親に会場で写真を撮りまくられることを考えると正直ぞっとする。それなら父親を満足させる程度の写真を撮ってくれる男の方がずっとましだ。そこでふと気付いて、高佳は口の端を歪めた。

「四季も生徒だと間違われるんじゃないか?」

 四季、というのが目の前の男、高佳の兄の名前だ。高校生になった高佳よりも低い背。未だに高校生かと言われる童顔。四季は今年で二十一歳になるが、下手をすれば高佳が兄に見られる時もある。

「……流石に制服着てなけりゃ大丈夫だろ」

 自分がいかに幼く見られるか、それをよく理解している四季はそう主張するものの、完全には否定しない。何せ高校の制服を着ているにも関わらず、中学生と間違われた経験を持っているのだ。そこまで話題が及ぶことを嫌ったのか、四季は小鉢に入った胡瓜の浅漬けを食べながら、行儀悪く箸先を高佳に突きつけて言った。

「出かけにちゃんと母さんに挨拶しろよ。全く、ようやく高校まで辿り着いたって感じだよ」
「四季といい、佳史といい、幾ら血縁の体といえ、こんな化け物と暮らしているなんておかしな奴らだな」

 佳史というのは父親の名前だ。体と魂が別人のものであるということを主張したいときだけ、高佳は体の父親を名前で呼ぶ。ちなみに四季のことを兄さんや兄貴と呼んだことは一度もない。四季の場合はあまりの童顔に、そう呼ぶことが不適当な気分になるからだ。

「父さんについてなら俺だって変わり者だと思うさ。だが、俺は物心ついたときからお前が弟だと思っていたんだからな。今更だろ」

 その通り。今更なのだ。どんなおかしな存在でも、四季にとって高佳は生まれた時から弟で、その中身が本来の存在と違っていても、本来の存在は四季に出会う前に消えてしまったのだから分からない。

「お前こそ、他人の体に入って赤ん坊からやり直すなんてよく承知したよ」

 だからといって四季のように素直に割り切れる人間はそうそういないと思うのだが。高佳はあえてそれを口にすることは止めた。朝から長い論議をするなんて御免だ。それでなくとも、四季は昔から口が達者で、その十数倍は長く存在しているはずの高佳でさえ丸め込む男なのだから。

「彩香の頼みだったからな」

 ぼそりと呟く。その答えに、四季は軽く肩をそびやかしただけだった。

「おっと、時間だ。さっさと鞄用意して、寝癖も直して来いよ。初日くらいは問題なく過ごしてくれ。俺は洗い物を済ませて、道場を見てくるから」

 その言葉に高佳は立ち上がる。食べ終えた食器を流しに片付けて、一旦自分の部屋に戻る。すると真新しい制服の上着が壁にかけてあり、ベッドの上にはネクタイが伸びていた。正直ネクタイは好きではないのだが、四季の言うとおり、初日くらいは無難に過ごさなくてはならないだろう。中学の時は学ランだったので、ネクタイの結び方は昨日の夜、四季に教わった。

 多少不恰好ながらネクタイを締めた高佳は、ブレザーの上着を着て一階に降りる。今朝はいない父親の部屋の障子を開けると、すぐに母親の写真が目に入る。仏壇はない。写真の前には四季が用意した桜の花が飾ってあるだけだ。高佳は写真の前に正座して、微笑む女性に向かって呟いた。

「……彩香。この体もようやく十六だ。人の生など一瞬だと思っていたが、結構長いものだな」

 そうでしょうとも、と写真の中で彩香が微笑みを濃くした気がした。実際のところは、彼女は死んでからも何の未練も持たず、あっさりと黄泉の国へ行ってしまったのだけれど。

 私の子どもになってくれない?

胎の中で子どもの魂となる小さな力が消えたことを感じて、彩香はある日そう言った。鬼の存在を信じていなかったわけではないが、高佳のことは鬼だと思っていなかった。

 貴方の探し人が、私だったら良かったのにね。

そう言って微笑んでくれた優しい女性。だが結局、彩香は高佳の探し人ではなかったし、もう十三年も前に先に死んでしまったのだ。いつかまた輪廻の先で出会えると信じていても、人と死別するというのはやはり儚さと、寂しさを感じさせる。

「高佳、行くぞ!」

 道場へ顔を出していたはずの四季が戻ってきた。四季は写真の前に正座する高佳に声をかけ、さっとその隣に正座すると母の写真の前で手を合わせ、高佳を急かして部屋を出た。

 四季の運転する軽自動車の助手席に収まると、高佳を乗せた車は家の門を出て幼馴染の住む家へ向かった。隣の家にも関わらず二百メートルは離れている。それもこれも高佳の家が山の上に人を避けるように建っているせいなのだ。坂を下って隣家の玄関へ車を停めると、中から車が来るのを待っていたのか、幼馴染の朱美とその母親が出てきた。キャリアウーマンの母親は、入学式には出席できないらしい。朱美は車の後部座席に飛び込み、母親は四季に写真を撮っておいてくれと頼みこんだ。

 朱美を乗せた車は、これから毎日自転車で通うことになる道を時折赤信号に捕まりながら進んだ。道路に転がる事故死した男の霊を踏み潰し、ビルから飛び降りを繰り返す幽霊を横目で眺めなる。飛び降りた霊が地面に叩きつけられ、また何事もなかったようにビルの屋上へ向かう姿を信号待ちの車から見ていた四季は、青信号とともにアクセルを踏んで、毎日ご苦労なことだなと呟いた。

 学校に近づくにつれて渋滞が酷くなり、高校に入っても入学式に来る父兄は何もうちだけではないのだなと高佳は思わず感動した。マナーの悪い割り込みに暴言を吐きながら、四季もようやく車を停める。生徒と父兄でごったがえす中、車を降りた高佳の隣で車の鍵を閉めながら四季が小さく悲鳴を上げた。

「うわっ! 流石に若い人間の集まるところは違うなぁ。こんなに集まってるの見るのは久しぶりだ」

 四季の視線は四階建ての校舎に向いている。四季が言ったことが、高佳は校舎を見なくても分かる。

「高校の時は毎日体験してたんだろ?」

 どれが本物の生徒か分からないくらいに、人に紛れている霊の姿。人の形をとることのできない雑霊も多くいて、高佳には校舎が雲に包まれているように暗く見えた。

「何? また二人で幽霊話なの? あたしは何も感じないけどなぁ」

 幼馴染の朱美は四季と高佳の間に割り込んで、目の上に手をかざしながら校舎を睨んだ。朱美も少しだけ霊感がある。それに幼い頃からこの兄弟の幽霊話に付き合わされて、今更この手の話題で身を引くことはなくなっていた。

「朱美は強くてヤバイものにだけ敏感だからな。安心しろよ。お祭り騒ぎに寄ってきた雑鬼ばかりだから」

 年下の朱美にそう言ってから、四季は高佳の隣で小さく不満をもらした。写真を撮るときは祓ってからでないと何も映らないだろうけど、と。

 四季は先に体育館へ。高佳と朱美は一度教室へ集まらなくてはいけないので、校舎の前に植えられた桜の木の下で別れた。圧倒的に母親の多い父兄様達の中で、四季は時々張り付いてくる邪鬼を祓いながら体育館へ消えていった。

 高佳と朱美は玄関に張り出されたクラス表から自分達の名前を見つけて、校舎の中へ入っていく。他の新入生達に混じって靴箱に下履きを入れる。朱美と高佳は同じクラスだった。高佳の周りには弱い雑霊は近づけないが、霊を呼び寄せやすい体質の人間はどこにでもいて、晴れの日だというのに表情が暗い。大体天気が良いのに窓を開けていないのが悪いのだ。これでは生徒にも悪影響が出る。そう思った高佳はまず一階の廊下の窓を開け放った。外の風が入って、反対に雑霊は校舎の外へ流れ出ていった。靴を履き替えた朱美に促されて、高佳は階段を上って四階の教室へ向かう。同じ新入生が溢れる四階の廊下の窓も開けながら自分の教室に向かう高佳は、ふと窓からの風に足を止めた。

「きゃあ! 何よ、タカちゃん。急に止まらないで!」

 急に立ち止まった高佳の背に顔をぶつけた朱美が叫んだ。

「……今、花の香りがしなかったか?」

 高佳は朱美の叫びなど聞きもしないで、そう言った。窓の風と共に高佳の鼻をくすぐった匂い。それは一瞬のことだったけれど、幻覚ではない。ずっと待ち侘びていた、忘れようのない香りだ。

「え? あたし今日は香水とかつけてないけど」
「違う。そういう香りじゃあなくて……」

 鼻先にぬりこめられたかのように強く香る白百合でも、軽く胸を躍らせる梅でも、菓子のように楽しげに漂う菊の香りでもない。例えようのない香り。ただ淡く光る花を連想させる、一度嗅いだら忘れられない。そういう執着心をかきたてられる香りだ。

「あ、桜の香りとか」
「いや……、悪い。気のせいだったみたいだ」

 口ではそう言ったが、それは決して勘違いなどではない。ただ朱美には感じることのできない香りだというだけのことだ。

「変なの。いいから席に着こうよ。同じクラスで良かったね」

 笑う朱美の髪が風に揺れる。黒く艶やかな、腰まで伸びる髪は微かにシャンプーの香りがした。その時高佳ははっきりと思い出していた。口の中で潰れた目玉の感触。冷たい血の味。柔らかな耳たぶを。

 俺は鬼だ。

あの肉の感触が忘れられなくて、鬼となって再びあの魂を宿す体を待っていた。それがようやく報われるのかもしれない。

 濃密な花の香り。
 消えることのない執着。


 だから俺は鬼になった――。

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